宮崎信也と中沢新一のボンズ・ヴェール




中沢:宮崎君は真言宗の坊主をね、ずっとやっていて。日本の仏教の全体は大乗仏教になるわけで、特徴は「汚れたもの」や「負のもの」を排除してしまうのではなくて、自分の中に一度取り込んで、内面化することです。浄化したり、密教の場合は転換したりするでしょ、それから浄土真宗の場合も認識で転換するんですよね。禅宗の場合は座禅というやり方があって、神経組織的に転換するというのがあります。みんな自分の中に受け入れてそれを転換して、新しい形態を生み出すということを主題としている、それを大乗仏教と言うのだろう、と僕は思うのね。上座部仏教の方はそういう「汚れ」に触れないというやり方をする。僕が勉強していた大乗仏教のやり方だとそれはまだ弱いやり方で、強い仏教は毒を自分の中に取り入れて、それを転換するための精神の技術の体系だというふうに理解してきました。だからずっと真言宗にも、禅宗にも、浄土真宗にも深い関心をもってきたわけなんです。
その機能が失われているんじゃないかと感じてきています。それはある意味、社会の中にある縁の部分に近づいていったり、あるいは死の領域、マイナスの領域に我が身を接近させていかないと、そういうことはできないんだけども、仏教が権威化してきて、社会的なヒエラルキーの中で高く位置づけられるように努力するばかりに、そういうものにだんだん触れなくなってきてしまうじゃない。その触れなくなってつくられた仏教の体系と、今の産業の体系がよく似ていると思うのね。もともと産業というのは一次産業、自然の一次サイクルにつながっているから、ここはもう腐敗があったり、死があったりしながら次の新しい生命が生まれだしてくる。そこに太陽エネルギーが注がれるから、その変換が実現できる。その上に余剰を交換する市場ができて、貨幣が生まれて、それを今度は変形していく第二次産業といわれる「ものづくり」工業がでてくる、商人がでてくる。そして第三次産業、サービス業ができてきた。第二次産業、第三次産業になってくると、だんだん循環過程から自分を切り離してくる、最後は貨幣だけになる、数字だけになる、という世界になって、しかもこれには国境もない、グローバルにつながってしまう。それが人間の世界にものすごく深刻な問題をつくりだしているときに、仏教も同じような道をたどってしまったんだな、という認識をもったんですね。やっぱり仏教というのは浄土真宗などを見ていると社会の最底辺に自分たちは近づくんだという意識が、親鸞とかには非常に強い。それから人間世界の中のいわば辺境地帯、自然の領域に近づいていく、これが空海たちの考え方じゃない。そうすると常にヒエラルキーの最下層に向かっていくのが仏教の命だと思っていた。それを僕は「緑の坊主」と名付けたいわけね。今の仏教が抱えている色々な問題、例えば縁に近づくことが形式化してくると、死の管理者、あるいは葬式の管理者になってしまうじゃない。そこにある仏教の中での意味がはっきり理解されなくなって形式化してしまった。そういう問題を宮崎君は悩んでいるしね。それがなぜ資本主義の問題と関わっているかと言うと、産業の全体システムというかな、それが動いていくシステムと仏教がミニチュアみたいにして動いていった構造がだいたい平行関係にあるんですよね。


宮崎:ちょうど『チベットのモーツァルト』がでたときに、バブルというのがあって、人間の欲望は際限なく大きくなっていくものだという期待感があったわけですよね。でも、その中で小欲知足の仏教って、それに対抗できるのかという問題があったときに、資本主義が今みたいに「疲れる」という意識がなかったんですよね。どうも人間の欲望をうまい具合に、どんどんどんどん破裂しない状態で膨らませていくことが永遠に続いていく中で、仏教はフィットしていけるのか、できるのか、という課題があったんですけども、それがこの10年でガラッと変わってしまった。第一次産業から離れてしまった資本主義が全然パワーを持っていないし、人間の欲望はそんなに際限なく大きくなるものではないとなったときに、「慈悲」という心さえも小さくなってしまったんですよね。欲望が大きいときには、一方で慈悲という世界もバランスを取るように人間の心の中にもあったかもしれないんですけども、その機能が失われてしまう。


中沢:それはなぜでしょう?


宮崎:さっき先生が言っていた「浄化」という言葉を仏教思想でいうと「空」という考え方に近づく。仏教は「空」ということを頭の中で観念化してしまい、現実とコミットしないのが「空」の実現のように言ってきた。そうではなくて、「空」とは心の状態ではなく、自然なのですね。自然を「地、水、火、風、空」から成ると密教は言っていて、大地に雨が降って、太陽が照って、風が吹くと空なることが起こってくる。では空とは何かと考えるときに、もともと本性がないんだ、と。空性なるがゆえに転換ができる、と。お互いに大地と太陽と水と空気というのは別々の問題なのではなくて、お互いに関係しているんだ、と。水と大地が緑に転換するように、そういう役目を空性というのが背負っているんだと、いうことになって、空というのは密教にとって積極的にオペレイトするものなんですね。


中沢:オペレイトだしね、変換器なんですよ。トランスフォーマーだし。
宮崎君のお父さんたちの世代は仏教のそういう問題とマルクス主義を理想に掲げている、つながりがあると直感していた人たちがたくさんいて「赤い坊主」と言われたわけだね。それが宮崎君の世代になったら「緑の坊主」になる(笑)。この「赤い坊主」から「緑の坊主」への変換がなぜ起こったのか、というのが今日一番重大な問題なんだと思うんですよね。赤い坊主たちはマルクスの考え方に共感したけど、今のような時代に見てみるとどういうことが言われているかというと、これは吉本隆明の考え方なんだけど、あれは一次産業が二次産業に圧倒されていく時代の考え方なんだというふうに捉えることができる。それはどういうことかというと、一次産業はさっき言ったように自然循環を組み込んだ大きい全体性の中で行われている経済サイクル、その次に来たのは貨幣経済をもとにした二次産業、製造業に一次産業が圧倒、支配されていく時代。だから現実的には農民が根こぎされてプロレタリアート、労働者になっていく過程があって、文化伝統も破壊されたりしていって、賃金労働者として自分の生活費を今度はお金で買う、自分の労働力を売る。資本家はお金集めて、インベストメント(投資)して、工場経営する時代の資本主義をマルクスが問題にしたんだ、ということです。これは本当に正しい理解だと思うんです。それで80年代に僕らが直面していた問題、本当は70年代から起こっていることなんだけれども、今度は二次産業が三次産業に圧倒される時代だったんですよ。それはつまりサービス業、メディア、広告業、金融業、これがものづくり過程に圧倒的な影響力を及ぼし始めます。だから例えば糸井さんという象徴的な存在がいたように、コピーライトが生産に影響を及ぼすという時代がきたわけです。その時代に、例えばボードリヤールの考え方、吉本隆明の考え方とか出てきて、いままでのマルクス主義はもう通用しないんだ、これからは第三次産業をたてた社会理論、消費理論を考えなければいけないということになってくるわけね。そうすると「生産」ではなく「消費」だとか、実体生産よりも、コピーとか、広告とか、幻想とかこっちの方だとかね。そういったものが大きくクローズアップされた。今僕らは違う時代にいるんですね。本当はその発端は、ポストモダンに踏み込んでいるのですけど、全面的にはそれを展開できなかった。それがはっきり現れたのが3.11です。それはなぜかというと、これはリーマンショックからきている同じ問題なんだけど、この第三次産業の肥大が今度は地球環境システムを破壊し始めている問題、国境を越えた資本の問題が文化と地域を破壊していくじゃない。そこにTPPという問題が現れてくる。そうしたときに僕らが次の経済システムに変化してかなければいけない、という過渡期にたったわけなんですよね。だからある意味では、吉本隆明たちの考えも、越えていかなきゃいけない時代に入っている。それは第三次産業が第二次産業を圧倒していく時代だったけれども、今度は次の…、これは何次かよくわからないですね、X次産業というのが第三次産業を圧倒していく時代にこれから入るのだろうと、僕はそういうふうに理解しているんです。そのときどういう意識形体、思考法がでてこなければいけないか、というのが今まさに抱えている問題です。それが赤から緑へという変化を象徴していると思うんですね。第三次産業が肥大していくと何が起こっていくのか。肥大していくのは貨幣と情報ですから、何が圧倒的に切り捨てられていくかというと生態圏の活動性、生命といった人間の脳の思考の中の計算とは違う野生の領域ですよね。こういうものが圧倒的に切り捨てられて、産業のシステムの中に入ってこられない状態になってしまっている。だからすごく資本主義は硬直化しているわけ。これを打ち砕いていくのが、今我々が目指している、次の次の、僕が「第八次エネルギー革命」と呼んでいるもので、第X次産業は第三次産業を包摂していくという次の段階をしめしていて、それを「緑」という言葉で象徴しようと思ったんです。


宮崎:一次産業があって二次産業、三次産業があるというのを、今僕らがようやくわかりはじめたことのひとつにワインブームがあります。一次産業がブドウ農家だ、二次産業はワインメイカーだ、三次産業がメディアであって、それは畑が隣り合っているのに片方は一本30万円で、片方は一本千円で売られているということがあって、いかにブドウからワインをつくるかという状態のときには、それは労働の対価をいい産業に転嫁しましょうというところでやってきたわけですよね。ところが僕らが言っている第三次産業が力をもったところでは、値段を付けるのは一次産業でも二次産業でもなく、三次産業の情報とそれを投資の対象として金融化までしてしまったと。それでいけるのか、というと、それで扱うものというのは豊かな農村がなくって、豊かなブドウ畑がなかったら、情報を扱うその根っこがないんだ、ということ。情報が肥大化していて、その中でみんながおいしいワインを「わっはっは」と飲んで、みんなグローバリズムの中で、「わあ、すばらしいブルゴーニュですよ」というときにブルゴーニュの畑そのものがなくなった瞬間にそれはありえなくなるんですよ。だから脳の中につくりあげられたブランドとかの情報は、時計にしても車にしても、地に足がついた技術がなければ、それは快感に結びつかない、単なる消費の原因にしかすぎない。


中沢:宮崎君らしい比喩でいいね(笑)。そうなると、今のはワイン産業全体をもう一度、一次産業にループさせなければいけないということだね。この新しい形成されるループのことを「緑」と呼んでいるのね。僕はそのことを強く思ったのは、吉本隆明さんが最後にね、「反原発は間違っている」と言った、あのときです。技術に対するある種オプティミスティックな考え方というのはあるんだけど、もう一度、一次過程に、生態圏にループをつくっていかなければいけないという、次の段階の人類の産業という考え方からすると、原発はやはり肯定できる技術ではない。それは原発という技術体系自体が、もう古くさくなってしまったタイプの科学技術の考え方で展開している、これが新しいところへ変化していかなければいけない時期に今来ているんじゃないかということを強く感じていました。そういうことを考えてみたら、僕と宮崎君というのは仏教と資本主義というのを長いこと考えているじゃない。40年くらいこの問題をお互い共通課題みたいにして考えているけど、この問題も資本主義、産業の問題として出てきている点と、仏教の問題とつながっているんではないかということが見えてきて、ボンズ・ヴェールをつくろうということになったんですよ。









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