宮崎信也と中沢新一のボンズ・ヴェール




司会(石倉):グリーンアクティブが始まってから半年です。その間に、中沢先生のアイデアである「グリーン」「緑」という奥行きだとか、他のドイツなどの緑の党と呼ばれているものと、日本でやらなければならないことの違いが、この半年ですごくよくわかってきたのではないかな、と実感しています。特に6月にニソの杜のシンポジウムを企画したときに、テーマとして浮上してきたのが「森」という問題でした。日本人に取って「緑」というのはどういう意味を持つのか、ということだったと思います。シンポジウムでの中沢先生の発言で「原子力発電所」が持っているエネルギーの源泉と、「森」の中で循環され維持されてきたエネルギーというものが、違うものを指しているということで、あえて神道になる前の日本人の心にとって一番古い場所、アニミズムと言ってもいいかもしれませんが、そういうところから「緑」を再定義するということを始めています。そこで「仏教と緑」という問題をもう一度考え直さなければいけないな、というのがグリーンアクティブの中でも共有されています。そういうときに「ボンズ・ヴェール(緑の坊主)」というのが始まります。

宮崎:ここは野生の科学研究所じゃないですか、僕たちがつくるのは「ボンズ・ヴェール」です。「緑の坊主」のこの「緑」は単なる自然ではなく「野生」を含んでいます。この「ソバージュ(野生)」という言葉が、「くだらない」というか「卑猥、野卑だ」という意味でとらえられているということがあります。僕が思っているのは、「上品な仏教」というのが一方であって、それは結局、社会に対して、戦争もそうだし、明治維新もそうだし、江戸時代以降檀家制度ができてしまってから、社会の中、経済システムの中で仏教が完結したものになってしまっていたんですよね。


中沢:経済システムだけじゃなくて、世の中の権威の問題もあって、権威の構造の中で如何に高いところに、自分たちのポジションを位置づけるかという努力を、ものすごく仏教はしたわけだよね。


宮崎:「ソバージュ」と表現されるような野性味がどんどんなくなっていき、それらは山伏とか修験道の方になっていって、「坊主」と言われている存在、「おい、坊主が」というところにもっていたワイルドさをどんどん失っていったわけですよね。多分、最初に空海が山の中に入っていって、そしてそれから密教という都市性のものをつくっていくわけですけれども、そのときは「自然というものはとんでもないものだ」「そのままでは人間が扱えないものだ」と考えられていたのではないか。天変地異にしても、「雨乞い」という、空海哲学がどうのこうの言っているよりも、基本的には「悪霊払い」と「雨乞い」で自分たちの権威をつくっていったのは実はすごく大切な意味があって、当時はまだ仏教も「野生の科学」だったんですよ。マジカルというか古代的な天皇がもっている神聖性を補完するものとして、天皇を中心とした律令制国家とそれを囲む海、山、森などの自然のどうしようもないエネルギーみたいなものを、ちゃんと使えるようにしてコントロールする。「雨乞い」をはじめ飢饉、火事、それから疫病がはやれば疫病を祓うというように、人間の目に見えないものにさらされる危機のようなもの、良い社会にとっては悪いものをなんとかコントロールする、というインターフェイスがもともとのお坊さんの役目だったと思うんですよ。


中沢:空海のもっと原型に行基がいるじゃない。僕は坊主の歴史の中で行基はすごく大事だと思っているのね。空海もマジカルな側面もあるんだけど、一方では技術的な土木工事をやっているわけじゃない。伝説だけどね、満濃池つくっていて、あれは明らかに行基を意識してやっているわけでしょ。その場合もやっぱり自然力をどうやってコントロールするのか、という科学技術という方からいくわけ。科学技術と野生の思考、マジックの認識方法は一体だったんだよね。


宮崎:分けられなかったものだと思うんですよ。「緑の坊主」というのも「やさしい、美しい、自然を愛する坊主」という意味では全然ないです。悪としてどうしようもなくコントロールできないものを、なんとかこの世界の豊かなものに変えようとする、そういうインターフェイスを担っているものとして「緑の坊主」というものをちゃんと根底に据えていくこと。仏教というものが果たしてこられなかったもの。南方熊楠も宮沢賢治も期待したんだけども、それに対して仏教界は無力だったわけですよ、戦争も起こったし、原発も起こしてしまった、と。


中沢:今の高速増殖炉「もんじゅ(文殊)」、「ふげん(普賢)」の名前にはひとつの歴史があって、仏教がもっている負の側面、権力にたいする伝統の中ででてきてしまったんだと思うんだよね。


宮崎:自分たちの伝統とは違うんだということを排除しないで、それを含めてやっていこうという話なんですよ。今回すごく反省があって、資本主義というものを僕ら誤解していて、近視眼的にとらえていたんですよね。市場経済というものだけで。


中沢:そうなの?


宮崎:先生が「ハイエクを読め」と言われて、ハイエクとポラニーとか勉強させてもらっていたら、それは仏教のもっているサンガとしての機能とお寺がもっている共同体の要という機能と一緒だと思いました。仏教が死と再生を司る葬式にしても、汚れというのを未来に持ち越さずに、ちゃんと受け渡しができていくという浄化機能、生命のマネーロンダリングとして、「汚れた魂をもう一度未来に向かって増殖させていけるんですよ」という役目がありました。もっと言えば、「未来というのはちゃんと続きますよ」と。「お寺さんに良いことすると、良い功徳がありますよ」と。仏教のお布施の発想と資本主義の未来に向かって投資していくという発想が、お金だけになってしまうと経済市場の投資と同じなのですが、ハイエクなどを読んでいると、資本主義は個人の意志が共同体の未来に向かってアンガージュマンしていくことが投資だと書いてある。それをもっと見えないかたちでしていくと、ニソの杜にお供物をそなえるというのは、未来にたいする投資なんですよね。それによって功徳があって、みんなが自然の贈り物を享受することができる、という大きな意味での投資、それにたいする配当というふうなかたちがある。なるほど、お寺がやっていることは、自分たちの幸せにたいする、見えないけれどもお布施という投資をすることによって、社会というのは規律をもった、エチケットをもったものとして次の世代につながれていくんだ、そういう発想があったと思うんですよね。